教会には、神様からのメッセージと賛美と笑顔があります

  歓迎のメッセージ  ふじみキリスト教会牧師 犬塚 契

…せかいをほっとさせよう…

 私たち、ふじみキリスト教会(Fujimi Christ Church)は、 
 @FunChurch A CheerChurch B CareChurch として、  この地にあって仕えます。

@「茫漠」を喜びの一言をもってはじめられた創造の続きを生きたい。
  ファンチャーチ 
A「そんなんじゃ生きていけない」から、「それでも生きていける」へ
  チアチャーチ
B神様のデザインには、喜びも悲しみも、健やかなことも病むことも、育つことも老いることも「祝福」としていのちまるごと入っている。
 ケアチャーチ  

@ファンチャーチ fun-church

初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。 創世記1章1-3節(新改訳

「茫漠」を喜びの一言をもってはじめられた創造の続きを生きる。

「教会は本来、楽しみを供給したり、弱さを励ましたり、自尊心を育てたり、友情を育んだりする場所ではなく、神を礼拝する所である。この点で失敗するなら、その教会は失敗である。」                   P.D.ヤンシー 教会 いのちのことば社

ふじみキリスト教会の最初のFをファンチャーチとしたいと思います。礼拝をささげることが喜びとなる恵みを特別にいただきました。きっとそれは、生まれつきではありません。いのちを造り与えられた神を私たちが知ろうとする時、礼拝するという姿勢でなければ、神を知ることはできません。その礼拝をひとりでなく集められた共なる礼拝者とできることを味わいたいと思います。何一つ生産不可能な何も実ることのない「茫漠」を期待と歓喜の一声をもってはじめられた創造のつづきを教会は生きます。変わらない喜びあるファンチャーチであれる理由は、どこまでも神様ご自身の第一声です。そう願われ、そうはじめられたからです。新来者の方々から「自分の考えた方法ではないけど、この礼拝の方法、作法は好きです」と言われるような、慣れ親しんだ方々からは「馴染み慣れただけでなく、ますます隣りの礼拝者の大切さを発見した」と言われるような礼拝をささげていきたいと願います。教会の存在は奇妙であり、不思議です。教会は、地にあって、もう一つの国、神のご支配、をどこまでもリアリティをいただいて生きるのです。伝道とは、その国の紹介であり、その国に忠誠を誓う生き方への促しです。信仰生活とは、きっと現状を超えて、もう一つの視点が加えられることであり、一場面を生かされることであり、もう一度へと導かれることです。人が知る世界がすべてでなく、信じて生きる世界もまた一つの現実であると認める作業なのです。私たちの礼拝を世に対して公開し、その場に共に招かれ続けながら、神の歴史を埋める働きをなしたいと思います。

       

Aチアチャーチ cheer-church

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。ルカによる福音書22章32節                                 
「そんなんじゃ生きていけない」から、「それでも生きていける」へ

 「ぼくたちはだれも一人ではやっていけない人間ばかりだ。・・・それこそ、イエスが来られた理由じゃないないだろうか」。彼は説明した。「それなのに、教会に通っているほとんどの人は、どことなく自己満足と優越感をただよわせている。ぼくには、彼らが神やお互いから学ぼうとしているとは思えない。彼らの人生は、だれに助けられなくても、収まるところに収まっている。アルコール依存症の人間がそんな教会に行くと、劣等感に打ちひしがれ、自分はだめな人間だという気分にさいなまれるんだ」 彼はしばらく黙りこんだが、やがてにっこりと笑みを浮かべて言った。「おかしなもんだね。自分のいちばん嫌いなところ、つまりアルコール依存症ということを、神はご自分のもとにぼくを連れ戻すために使った。だからぼくは、神なしでは生きられないことを知っている。たぶん、それがアルコール依存症になったことの埋めあわせなんだろうね。たぶん神さまは、信じる者たちが神に頼ることを、また地上にある神の共同体に頼ることを教えるために、ぼくたちアルコール依存症患者を召しておられるのだと思う。」              P.D.ヤンシー 深夜の教会 あめんどう

チアとは応援するという意味です。実際、応援がなくてはどう歩めばよいのでしょう。生を与えられた私たちそれぞれが抜き差しならない場を生きます。「生きること」の選びとりに励ましが必要です。原寸大の交わりの中で、頼りあいの歩みをいただきたいと思います。キリストの体なる教会は、それ自体が大きな応援団です。祈るにも励ますにもそれを改めて意識し、主にある兄弟姉妹であることを喜びたいと思います。一年で四季がめぐるように、人の歩みにも春夏秋冬があります。信仰生活においてもしかりです。春に見事に変る紅葉は見られず、夏に白一色の雪原を期待できません。秋に新緑は芽生えず、冬は下に根を張る時です。それぞれに生きるべき場面があります。ルターにして、完全に神が見失われた時期があり、マザーテレサの晩年にして神がいる場所が見出せない悲しさを味わいます。それは、イエスキリストの十字架の意味を知るための時でした。急がされず、見切られず、削られず、裁かれずにそれぞれの信仰の課題を丁寧に生きることできるファームと教会はなりたいと思います。風前の信仰に、イエスキリストの祈りが聞こえます。「信仰が無くならないように祈った。だから、立ち直ったら・・・」

 Bケアチャーチ care-church
わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。…わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。   詩篇22編2-6節

「いのちまるごと」を創造主からの祝福として受けるために 

「言い換えれば、人は(もしかしたらビリー・グラハムの伝道集会に参加して)信仰をもち、それから教会に出席し始めるのです。しかし、これはひとつの可能性にすぎず、これがただ一つの聖書的なモデルだと考えてしまうと、私たちのミニストリーは貧弱になるでしょう。私たちの時代がもつこうしたポストモダン的な所属へのあこがれは、もし、人間の本性に関するヒッポのアウグスティヌスの教理を用いるとすれば、それは究極的には神へのあこがれなのです。究極の共同体は、神の三位一体それ自身であり、それは私たちの教会がモデルとし、宣べ伝えることのできるものなのです。・・・人々は信じるだけでなく、所属したいのです。」アリスター・マクグラス  ポストモダン世界のキリスト教  教文館  

 生きることの中には、喜びも悲しみも、健やかなことも病むことも、育つことも老いることも、一切がまるごと入っています。いのちまるごとです。特別な時代を生きることを赦されました。 この時代に、教会が「神の国は近づいた」ことへの信頼と希望を語り得るためには、どんなデザインが必要なのでしょうか。教会の宣教が全人格的になされ、福音が包括的に伝えられるとはどういうことなのかを日本中の教会もまたあちこちで手探りで始めています。各教会全体が新しい時代を迎えています。世界史上誰も直面したことのない場面の中で、神の言葉を頼りに生きていこうとしています。ふじみキリスト教会もともに連帯しながら、せっかくの時代の中で、その神のみ業の一片を担いたいと思います。創造主、主権者である方への信頼によって、イエスキリストを遣わしてくださった愛の証拠によって、底知れぬ大丈夫をいただきながら、ユーモアをもって、地の塩の働きとして腐りきらせず、世の光として希望をいただき、「せかいをほっとさせよう!」させる働きをしていきたいのです。

 



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